はじめに

裁判員制度は,2009(平成21)年5月21日から実施される予定である。
裁判員制度は,市民が刑事裁判に参加して,市民のさまざまな経験や知識を刑事裁判に反映させて,よりよい刑事裁判を実現するためのものである。
裁判員制度は,「絶望的な状況にある」といわれて久しいわが国の刑事裁判を大きく変革する可能性を有している。現に,裁判員裁判の実施が近づくにつれ,調書中心の立証から法廷供述中心の立証へという変化,証拠開示制度の積極的な運用,警察・検察庁における取調べの一部録画の試行,裁判所における保釈基準の見直し傾向など,未だ不十分ではあるとはいえ,刑事司法の運用について,変革の兆しが生じてきている。
しかしながら,一方,これまでに実施された模擬裁判の結果や先行的に実施されている公判前整理手続や集中審理の実例を踏まえると,
1.公判前整理手続の運用如何によっては黙秘権侵害,予断排除の原則の後退,被告人の無罪推定の原則の形骸化のおそれがあること,
2.裁判員の負担軽減を最優先することによって拙速・粗雑な審理となってしまうおそれがあること,
3.評議において,裁判員が真に主体的・実質的に関与することができるか,とりわけ,裁判員が量刑について適切な判断をすることができるか疑問があること,
等々の様々な問題点ないし懸念があることも否定できない。
そこで,わが国の刑事裁判が、裁判員裁判を通じて、大きく変革する可能性を現実のものとし,これと並行して、被告人の人権保障や冤罪の防止に十分配慮しつつ事案の真相を解明するという刑事裁判の目的を達成するためには,裁判員裁判の実施にあたって留意すべき問題点を確認し,それを克服するための方策を検討することが必要不可欠となる。
当連合会は,このような観点から,下記の通り裁判員制度の実施にあたって留意すべき問題点をまとめることにしたものである。

 

第1 意見の趣旨

裁判員制度の実施あたっては,以下の問題点に留意すべきある。

1 審理期間について
刑事裁判の目的である真相の解明と被告人の権利保護のために,個々の事件における当事者の意見を尊重しつつ,必要かつ十分な審理期間が確保されるべきであり,裁判員の負担軽減を最優先して,拙速な審理が行われることがあってはならない。
2 公判前整理手続について
(1)裁判所は,公判前整理手続には,その運用如何によっては,黙秘権侵害,予断排除の原則の後退,被告人の無罪推定の原則の形骸化のおそれがあることに留意して,当事者の主張立証方針を最大限尊重して,審理計画を策定することに徹すべきであり,当事者の意向を無視して,裁判所主導で「争点の絞込み」,「証拠の絞り込み」を強行するようなことは厳に慎むべきである。
また,証拠調べ請求権の制限規定(刑事訴訟法316条の32)の「やむを得ない事由」の解釈にあたっても,被告人の黙秘権保障や無罪推定の原則に十分配慮することが必要である。
(2)連日開廷による集中審理において,被告人が十分な防御を尽くすことができるようにするためには,公判前整理手続の段階で,被告人・弁護人に十分な準備期間を保障することが極めて重要であり,裁判所が,予め公判前整理手続の終期を定めるなどといった運用を行うことは許されない。
(3)公判前整理手続における証拠開示制度は,被告人の防御のために必要なすべての証拠が開示されるよう運用されるべきである。
3 評議について
裁判員制度の実施を目前にして,裁判員がみずからの意見を形成することが可能となる審理の実現,評議に関する客観的ルールの確立,裁判員の参加する刑事裁判に関する法律(以下、単に「裁判員法」という。)39条1項・同規則36条の事前説明の充実等々の裁判員が主体的・実質的に評議に関与することができるような環境の条件の整備が急務である。
4 量刑判断について
裁判員が,刑罰の目的・機能にてらして,適切な量刑判断をすることができるようにするために,評議のあり方,量刑資料の内容,量刑資料を提示する時期などについて工夫が必要となる。
5 部分判決制度について
部分判決制度は,限定的に運用すべきである。
6 控訴審について
裁判員裁判や公判前整理手続と事後審である控訴審との関係は,未だ検討されておらず,早急に検討を行うことが必要である。
7 少年逆送事件について
少年逆送事件ついての裁判員裁判のあり方について,成人の場合とは別の運用等の検討が必要である。
8 国選弁護人の複数選任について
裁判員裁判対象事件については,原則として国選弁護人を複数選任するという運用が行われるべきである。
9 取調べの可視化(取調べの全過程の録画)の実現について
裁判員裁判対象事件については,取調べの可視化(取調べの全過程の録画)が強く求められる。検察庁において試行されている一部録画は,かえって自白の証拠能力・証拠評価を誤らせ,誤判・冤罪を生む危険性があるというべきである。
10 保釈制度の弾力的・積極的運用について
連日開廷による集中審理において,被告人側が十分な防御を尽くすためには,現在の保釈制度の運用を根本的に見直し,保釈制度の弾力的・積極的運用により,被告人の身柄拘束からの早期解放を実現すべきである。

 

第2 意見の理由

1 審理期間について
裁判員裁判の審理期間について,最高裁判所は,裁判員の負担軽減を理由として,「約7割の事件が3日以内に,約9割の事件が5日以内に終了すると見込まれています」とする(「裁判員制度ナビゲーション」最高裁判所 2008年9月)。
しかしながら,個々の事件における当事者の活動の在り方は,多様であり,大部分の裁判員裁判の審理期間が,3日から5日以内であるとする最高裁判所の説明には何ら根拠がないというべきである。裁判官が,「3日から5日以内」ということに拘泥して,その期間内に審理を終了させるために,弁護活動を不当に制限することが強く危惧される。
刑事裁判の目的である真相の解明と被告人の権利保護のために,個々の事件における当事者の意見を尊重しつつ,必要かつ十分な審理期間が確保されるべきであり,裁判員の負担軽減を最優先して,拙速な審理が行われることがあってはならない。
最高裁判所事務総局刑事局作成の「模擬裁判の成果と課題」においても,裁判員の負担軽減への配慮が一面的になり過ぎると,「真相を解明するという刑事裁判の基本的な要請や,被告人の防御権の保障を軽視するということに繋がりかねない。」,「銘記しておかねばならないのは,裁判員制度のもとでも,事案の真相解明は,審理期間の短縮以上に重要な課題であることである。公訴事実と重要な情状事実の解明に必要な審理を省いてよいということにはならない。」との指摘がなされている。
2 公判前整理手続について
(1)黙秘権侵害,予断排除の原則の後退,被告人の無罪推定の原則が形骸化するおそれ
公判前整理手続の目的は,「充実した公判の審理を継続,計画的かつ迅速に行う」ために,第1回公判期日前に,事件の争点及び証拠を整理することにある(刑事訴訟法316条の2第1項及び316条の3第1,2項)。
そのような公判前整理手続の目的を達成するために,被告人・弁護人は,公判期日において証明することを予定している事実上及び法律上の主張を明示し,そのための証拠調べを請求しなければならず(刑事訴訟法316条の17第1項,2項),公判前整理手続終了後は原則として証拠調請求が制限される(刑事訴訟法316条の32)。 このような公判前整理手続における予定主張明示義務と証拠調べ請求の義務には,その運用如何によっては,被告人が自分にとって有利か不利かを問わず一切陳述しないことができる権利である黙秘権を無視・侵害する危険,予断排除の原則を後退させる危険,事実上立証責任の転換を生じさせ、被告人の無罪推定の原則が形骸化する危険がある。 それゆえ,裁判所は,公判前整理手続においては,当事者の主張立証方針を最大限尊重して,審理計画を策定することに徹すべきであり,当事者の意向を無視して,裁判所主導で「争点の絞込み」,「証拠の絞り込み」を強行するようなことは厳に慎むべきである。
また,証拠調べ請求権の制限規定(刑事訴訟法316条の32)の「やむを得ない事由」についても,被告人の黙秘権保障や無罪推定の原則に十分配慮した柔軟な解釈が必要となる。
(2)十分な準備期間確保の必要性
裁判員裁判においては,連日開廷による集中審理が行われるが,集中審理の実施によって,被告人の防御権を損なうようなことがあってはならない。
集中審理を被告人の防御権を損なわずに実施するには,公判前整理手続の段階で,被告人・弁護人に,類型証拠開示請求や主張関連証拠開示請求によって開示された証拠の検討,証人予定者からの事情聴取,鑑定書作成のための準備,その他の調査等に要する期間を十分に保障することが必要不可欠となる。
(3)証拠開示
連日的開廷による公判中心の審理のもとで,被告人側が充実した防御活動を行うためには,公判前整理手続において,必要かつ十分な証拠開示が行われなければならない。 したがって,公判前整理手続における証拠開示制度は,被告人の防御のために必要なすべての証拠が開示されるよう運用されるべきである。

3 評議について

市民が刑事裁判に参加して,市民のさまざまな経験や知識を刑事裁判に反映させて,よりよい刑事裁判を実現するという裁判員制度の目的を達成するためには,裁判員が評議に主体的・実質的に関与することが必要不可欠となる。
裁判員制度の実施を目前にして,裁判員が主体的・実質的に評議に関与することができるような条件を整備することが急務である。
具体的には,
1. 裁判員裁判の審理においては,事件の構造全体と個別の争点
との関連を分かりやすく設定する,裁判員の集中力と判断力を確保できるような分かりやすい証拠調べを実施する,結審の段階で当事者の主張にかかる争点、それに対応する証拠関係をも明確にするなど,裁判員が,自らの意見を形成することが可能となるような工夫が必要となる。
2. 評議の進め方や内容が個々の裁判官の力量によって左右されることなく,望ましい評議が行われるような裁判官の役割,発言のタイミング・内容等に関する客観的ルールを確立する必要がある。
3. 裁判員法39条第1項を受けた同規則36条は,裁判員の宣誓段階で,裁判長が,証拠裁判主義,立証責任の所在及び程度について説明することにしているが,その内容は,裁判員が確実に理解できるようなものでなければならないし,最終評議ではもちろん,中間評議の場においても,適宜,繰り返し説明するべきである。

4 量刑判断について

量刑判断は,単純な応報では割り切れないものであり,また,公平性・平等性の要請をも満足させるものでなければならず,刑罰の目的・機能をふまえた専門的知識や経験の蓄積に基づく複雑なものである。それゆえ,刑事裁判に一回的に関与するにすぎない裁判員が量刑判断に関与することの当否については,議論の余地があるところである。  裁判員が適切な量刑判断を行うことができるようにするために,評議において,刑罰の目的・機能についての適切な説示を行ったうえで,刑罰の目的・機能にてらして,量刑判断の基礎となる各事実が,どのような意味を持つのかについての慎重かつ多角的な検討を行うことが必要となる。
また,量刑判断の公平性・平等性を確保するために,それまでに築きあげられてきた量刑資料を,適切な時期に提示する必要がある。そして,提示される量刑資料の内容が妥当なものでなければならないことは当然であり,提示される量刑資料は,事前に当事者に公開されるべきである。

5 部分判決制度について

部分判決制度が直接主義との関係で問題の多い制度であることは否定できない。しかしながら,裁判員の選任が困難となるような長期間を要する併合事件について,何らかの仕組みを用意しておく必要性は否定できないところ,現時点では,部分判決制度に替わる有効な制度は,これまでのところ提案されていない。
それゆえ,当面は,部分判決制度を限定的に運用するということで対処するほかないように思われる。
また,部分判決制度では,裁判員は,各事件別に選任されるのに対し,裁判官は全ての事件を担当するので,裁判官と裁判員の間に情報格差をもたらし,対等なコミュニケーションに影響を及ぼすおそれがあるので,この点からも,部分判決制度は限定的に運用されるべきである。

6 控訴審について

刑訴法の上訴に関わる部分は全く改正の対象にならず,依然として検察官も控訴できるし、事実誤認も控訴理由となる。
控訴審では,原則として原審における証拠を精査して原判決の当否を判断するのであり,しかもそれは職業裁判官3人のみでなされる。控訴審の運用次第では,市民の健全な社会常識を刑事裁判に反映させるという裁判員制度の意義を事実上否定することにもなりかねない。
裁判員裁判についての控訴審の在り方について,早急に検討を行うことが必要である。

7 少年逆送事件について

少年の原則逆送対象事件(少年法20条2項本文)は,裁判員裁判対象事件でもある。
少年事件は,少年の情操保護・更生への配慮が必要とされており(少年法1条,50条,刑事訴訟法277条),保護主義の観点から逆送事件について裁判員裁判の問題点を検討する必要がある。特に14歳,15歳の年少少年が,9名の裁判官・裁判員に囲まれて萎縮してしまう可能性,社会記録が公判で朗読されることによる種々の弊害の可能性に照らせば,少年逆送事件では,成人の場合とは別の運用等を検討する必要がある。

8 国選弁護人の複数選任について

模擬裁判における経験からすれば,裁判員裁判において,1人の弁護人が連日開廷による集中的な審理に対応することは極めて困難であることは明らかである。
したがって,裁判員裁判においては,原則として国選弁護人を複数選任するという運用が行われるべきである。

9 取調べの可視化(取調べの全過程の録画)の実現について

裁判員裁判においては,公判中心の審理が行われることになるが,適正かつ充実した公判審理を行うためには,取調べの可視化(取調べの全過程の録画)によって,捜査を透明化し,虚偽自白調書が作成されることを阻止することが必要である。
また,自白の任意性や信用性が争われる場合,法廷での審理は,直接の証拠がないままに,捜査官の証言・供述が続き,いわゆる「水掛け論」になってしまうおそれがあるが,それに裁判員を延々と付き合わせることは適切ではない。
それゆえ,とりわけ裁判員裁判対象事件については,取調べの可視化(取調べの全過程の録画)が強く求められることになる。
現在,警察や検察庁において試行されている一部録画は,既に作成した自白調書についての確認場面であるとか,読み聞かせをして署名を求める場面のみを録画するというものにすぎない。
しかしながら,そのような一部録画では,どうしてそのような自白をしてしまったのかについての客観的な検証が不可能であり,自白の任意性や信用性の判断に役に立たないばかりか,かえって自白の任意性や信用性の判断を誤らせ,誤判・冤罪を生む危険性があるというべきである。

10 保釈制度の弾力的・積極的運用について

連日開廷による集中審理において,被告人側が十分な防御を尽くすためには,被告人と弁護人とが綿密な意思疎通を図って十分な準備を行ったうえで,審理に臨むことが必要不可欠となる。
そのためには,現在の保釈制度の運用を根本的に見直し,保釈制度の弾力的・積極的運用により,被告人の身柄拘束からの早期解放を実現すべきである。

11 むすび

以上の他にも,裁判員制度については,公判前整理手続が非公開でよいのか,裁判員の選定手続にかかわる問題,難解な法律概念(殺意,正当防衛,責任能力,共謀共同正犯等々)を裁判員にどのように説明するのか,法廷が単なるパフォーマンスの場に堕するのではないか、裁判員の守秘義務の問題,評議の事後的検証体制の整備等々,検討すべき課題が残されている。
本意見書において指摘した問題点に留意し,その克服を目指すことなくして,被告人の防御権の保障・無辜な者の救済という弁護人の使命を全うすることは困難である。
わが国の刑事裁判が、裁判員裁判を通じて、大きく変革する可能性を現実のものとし,これと並行して、被告人の人権保障や冤罪の防止に十分配慮しつつ事案の真相を解明するという刑事裁判の目的を達成するために,裁判員制度に関する課題を検討するとともに,それらを克服するための方策を検討すべきである。

 

以上